札幌にて母が妹を出産するために、
当時7歳だった俺は道北にある母方の実家に預けられていた。
祖父母宅では酪農を営んでいて、
仕事合間の子供の面倒は手に余ったらしく、
そこで登場したのが父方の姉夫婦。
俺にとっては伯父伯母なのだが、
この伯父さんが絵に描いたような山男で、
職業もまさにマタギ。
なにより見た目が、
本当に山に捨てられてしまうと覚悟するくらい怖かった。
祖父母宅を放逐され伯父さん宅に行くのだが、
これがまた道北の山の中の小さな村で、
戸数も30戸あるか無いかのさびれた村だった。(当時)
ちょうど冬になり初めで、
外で遊ぶこともできず退屈を持て余していた。
実は伯父さんは、
見た目からは想像もできないくらい話好きで、
猟から帰ってきたら、
山で撃つ動物の話などを聞かせてくれた。
「うさぎは狐の鳴きまねしてやったら、
すぐ耳立てて頭出す馬鹿だ」
とか、
「えぞ鹿はものすごくでかくて、
頭の高さがダンプの運転席くらいある」
とか。
中でも一番心に残っているのが羆の話。
「親の羆は一発で仕留めないとダメなんだ。
小羆は人を見たらひるむんだ。
そんで一発で死ぬ。
でもな、親羆はこっちに向かってくる。
一発で仕留められんかったらこっちがやられる。
万一な、親羆がびびって逃げたとしても、安心したらダメだ。
あいつら執念深いからな。臭いで追っかけてくる。
そんでやられたヤツもいるんだ」
その話を聞いたときは心底怖かった。
そうこうして数日がすぎ、
朝から吹雪になったある日の午後。
伯父さんが家に戻ってくるなり玄関先でこう言った。
「羆出た」
駆け寄った伯母さんと、
玄関の土間でなにやら話しているが聞こえた。
「吹雪じゃ出れねぇから、吹雪止むまで待つ」
「仲間にはもう言ってあるから、雪が止み次第でる」
子供ながらに
『羆って絶対やべぇ!!』
ってなって、
居間から顔だけ出して二人の話を聞いてた。
そんな様子を見つけた伯母さんはニヤリと笑って、
「ダイジョブだから気にスンナ~」
と、なんとも能天気に俺に声をかけた。
それで、
夜になり雪が止んだので、
伯父さんは山に入って行った。
伯母さんは慣れたもんなのか、
さっさと床について寝てしまった。
俺は
『羆がそこら辺を歩いているのか!?』
などと妄想して寝るに寝れず、
布団の中でガタガタ震えながら横になっていたのだが、
こういうときに限って、あいつは襲ってくるのである。
尿意である。
しばらく羆の恐怖から布団の中で我慢するのだが、
どうにもならなくなり、
『布団に地図を作るよりは!』
と、便所に向かう決意をした。
真っ暗な寝室を抜けて、
便所に続く短い廊下を壁伝いに手探りで進んだ。
便所の明かりは裸電球から紐が伸びてるやつで、
真っ暗な便所に入ってからじゃないとつけられない。
俺はもう我慢の限界に達していたので、
ほとんど外の寒さと変わらない便所に突貫した。
外の雪明かりがわずかに便所に差込んでくるのを頼りにし、
紐を引き電気をつける。
やや明るく照らされたそこは、
もちろん壁床全面板張りのボットン便所。
窓には外からビニールで目張りしてあり、
幾分寒さを和らげる工夫がしてあるが、
いかんせん北の冬なわけで、
怖さと寒さでちっさい息子はさらに小さくなって、
小便を出そうにも中々出てくれない。
ちょろちょろと小便が出始めた…
そのとき、突然風が吹き、
壁と窓が大きくガタガタと鳴りだした。
「うわゃ!!」
と俺は思わず声を上げた。
ビックリした俺は、
小便の的をはずし大粗相をしてしまった。
的を戻し小便を出し切った時には、
羆のことよりも粗相をしてしまったことで
『怒られる』に頭が切り替わってしまい、
こぼれた小便を片付けるのに懸命だった。
一仕事終えて便所を後にした俺は、
すっかり羆のことも忘れて、
放尿した安心感からかすぐ寝てしまった。
この話の顛末は、
翌日に伯父さんから聞かされた。
吹雪が止んで山に出ていた伯父さんと猟仲間は、
長いこと羆探していたが見つからず、
日付がかわる前にいったん山を降ることにし、
それぞれが家路についていた。
伯父さんが家まであと50メートルくらいのところで、
雪明りに中に黒い塊が家の裏手に向かうのが見えた。
そのとき家の一角にぱっと明かりがつき、
黒い塊を照らした。
間違いなく羆だった。
その羆は明かりを覗こうと立ち上がり壁に体をあずけ、
窓に向かって顔を伸ばした。
伯父さんが注意をこちらに向けようと大声をだそうとした瞬間、
羆は何かに驚いたのか、
急に家の裏手の雪深い沢の方へと走り去って行ったという。
その後伯父さんは、
再び仲間を集め羆を追いかけたらしい。
翌朝には、
1.5メートルの立派な羆が役場の前にさらされていた。
先日、
その伯父さんが亡くなり(老衰です)、
思い出したので書いてみた。
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